2024/3/22 環境の変化を経て

 

☆2月下旬に東京から千葉へ引っ越しました。防音室はユニットを入れたり、生活環境も変わりました!

 

 

 

 

 

☆私にとって特別な子供の頃のピアノの環境をまとめてみました♪

 

【原点と発展 - 鹿児島と東京】

1、野性的な自然体験  私は現在クラシックピアニストで演奏活動をしているが、習い事で大事な時期である子供の頃の過ごし方については「対になっている」側面を常々思っていた。 生まれは鹿児島県大隅半島大根占町で、現在人口7,479人。せめて子供の教育のためにと私が小学3年生になる時に両親は県庁所在地の鹿児島市へ引っ越す決断をした。それでも鹿児島なのでいつもの桜島が見えていて、当時はしょっちゅう噴火をして音も振動も大きい桜島に自然の生きてるような力を感じる私は喜び感動していた。この雄大で見ているだけで勇気が出そうな姿を毎日見て、息吹のような勢いのある噴火の音を聞いていた日々は私自身の一部となり演奏にも表れてしまうのだろう。一度地元の新聞に「もし桜島がなかったら」というコラムに桜島がない写真が出ており、ショックで悲しく涙があふれた。火山灰も「ドカ灰」という方言があるほど当時多量に降っていたが、私は元気があって良いと考えていた。

2、都会での音楽教育  両親は優しくのんびりした性格で、ピアノの先生もゆったりとした指導ペースだったが、母の姉は夫と二人で東京近辺でピアノ教室を3か所主宰していて忙しい生活だった。子供がいないので私を可愛がり幼稚園の頃から夏休みなど飛行機で遊びに来させてピアノを見たりしていたが、やがて10歳という学びに最も適したゴールデンエイジを前に遂に一緒に住む提案を伯母が始めた。私は親元を離れ小学5年生から東京の伯父伯母宅に住むことになった。家は足立区綾瀬だったが、毎年主催ピアノ発表会は銀座のヤマハホールで行われ、リサイタルやオペラ、そしてウィーンで開催のセミナーへも連れて行ってもらい世界が変わったように様々な音楽体験と有意義な学びができた。テレビ東京番組でのピアノ演奏や、ウィーンでの演奏会出演に抜擢は今でも忘れられない思い出だ。伯母も同行したウィーンでは、私一人ウィーンに残る!と言うくらいヨーロッパの素晴しい音楽環境を気に入った。 だがその反面、伯母は厳しいところがあるために私は精神的には疲れていった。親元を離れた寂しさもあった。

3、感謝の光の中で  鹿児島に生まれ桜島を見て育ったおかげで、私は自分を「ぼっけもん」(鹿児島弁で、大胆な人)と思え行動する勇気が備わり、優しい両親のもとから思い切って飛び出すことが出来た。厳しい親戚との生活は大変なこともあったが、ピアノを学ぶ上で必要な耐えて練習するための強い精神力を鍛えることができた。 去年はコンサートで鹿児島を懐かしく思う自作曲「ノスタルジア」を音楽家である弟と演奏共演することができた。もう伯父伯母はこの世にいないが、今もピアノを頑張れるのは10歳で東京に向かったあの頃の自分のため、そして東京に呼んでくれた伯母の情熱のおかげだ。

♢伯母の七回忌法要を鹿児島市実家にて(2024年2月)

♢シェラトン鹿児島